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Saturday, August 22, 2020

「先妻の子」と「後妻業の女とその息子」の間に起きた骨肉の相続争い! 勝ったのは……(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

『十六夜日記』は息子のための訴訟日記

 やり過ぎ感のある母といえば、前回の『蜻蛉日記』道綱母に続き、鎌倉時代の阿仏尼(1222から1224~1283)もそのひとりです。  阿仏尼は、紀行文学の『十六夜日記』の作者として有名ですが、実はこの日記、夫・藤原為家(1198~1275)の死後、自分が生んだ為相(1263~1328)と継子の為氏(1222~1286)が土地の相続で争い、その訴訟のために阿仏尼が京からはるばる鎌倉に下った時の旅行記なんです。  為家はかの有名な藤原定家の嫡子、歌壇の重鎮です。  彼は、阿仏尼と出会う前、すでに為氏や為教(1227~1279)といった成人した子がいました。阿仏尼も男女2人の子持ちでした。それが1253年ころ、つまりは阿仏尼が30から32歳のころ、56歳になっていた為家と馴染みになって、定覚(父については異説あり)、為相、為守(1265~1328)を生みます。そして、為家の子のひとり源承の『和歌口伝』十によれば、阿仏尼は、 「自分に名誉と名声が備わることを狙って」(“みづから名望あらん事を思ひて”)  為家の家に伝わる和歌文書類をすべて自邸に運び出し、 「為氏は心が狭くて同腹の弟さえ和歌の道から遠ざけている。まして庶腹の末弟たちに見せてやることなどすまい」  などと称して、為氏の末弟たちを呼び集め、女主人然と振る舞うのを、夫の為家も「狸寝入りして」(“そらねぶりして”)黙認していたといいます。  しかも為家は、いったん為氏に譲った所領「細川庄〈ほそかわのしょう〉」を、阿仏尼腹の為相に与える譲り状を作成してしまう。当時は「悔い返し」といって、譲った財産も親の都合で取り戻すことができたのです(※1)。  それで為家死後は、この細川庄の相続を巡り、阿仏尼腹の子の為相と先妻腹の為氏が争うこととなり、1279年、為相の母の阿仏尼が鎌倉幕府に訴えに行ったというわけです(ちなみに為氏の母方祖父の宇都宮頼綱は歌人としても名高く、定家の百人一首は頼綱の依頼により書かれた色紙歌がもとになっていると言われています)。

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