尾堂千咲希さん(32)=神戸市垂水区=は12年前、短大在学中の交通事故で頸髄を損傷、車いすが必要となった。体の大半が動かず就職をあきらめかけた時、事故前に内定をもらっていた保育園の責任者から思わぬ物を手渡される。それは職員用のポロシャツ。「ずっと待っていますから」。懸命のリハビリをへて尾堂さんは今、幼い頃からの夢だった保育の現場で働いている。(綱嶋葉名)
母は幼稚園教諭。その背中を見て育った尾堂さんは自然とその世界に憧れるようになった。中学2年の職業体験も幼稚園。思いはさらに強まり、幼児教育や保育が学べる頌栄短期大学(同市東灘区)に進んだ。
順調だった学生生活は、卒業を翌春に控えた2年生の12月、突如暗転する。いつも通り大学に行こうと、自宅から最寄りの駅までミニバイクで向かった。記憶はそこで途切れている。
意識が戻ったのは、その2週間後だった。病院のベッドにいた。なぜだか分からず、家族に「私はなんでここ(病院)にいるん?」と何度も尋ねた。バイクが転倒し、全身を強く打ったと聞かされた。頸髄損傷。鎖骨から下の感覚がなかった。
このとき既に尾堂さんは就職が決まっていた。社会福祉法人「神戸YMCA福祉会」(同市中央区)が運営する保育園。夢をかなえるはずだったのに…。「自分の体はもうどうしようもない」。ぼんやり、そう思ったという。
保育園の責任者が見舞いに訪ねてきたのは、その頃だ。その男性は尾堂さんに言った。「どんな形でもいいから、うちで働いてほしい」。そして、いつか着てもらえるようにと、手渡されたのが職員用のポロシャツ。それが「約束の印」となった。
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リハビリはつらかった。手を上に上げることさえできない。ベッドに寝たまま手におもりをつけて上げ下げしたり、座る練習をしたりと、少しずつできることを増やしていった。支えとなったのは病院で知り合った仲間。同世代の女性たちと励まし合った。
事故から約3年半たって車いすで復学。そこからさらに1年半をかけて、保育士資格と幼稚園教諭免許を取った。
約束通り、保育園に就職したのは2016年の春。事故から5年余りの歳月が流れていた。
四肢まひの障害を負った尾堂さんだが、今は事務職として、西神戸YMCA保育園(同市西区)で働く。保護者とのやり取り、書類作成や経費管理などに忙しい毎日。何より自分のことを「先生」と呼んでくれる園の子どもたちとのふれあいがうれしい。
「登園時に私の車いす姿が見えたら、子どもたちが走ってきて扉を開けてくれる」。その思いやりが心を温かくする。
私生活では、障害者スポーツの車いすツインバスケットボール、自ら車を運転しての旅行を楽しむ。「人の温かさにたくさん助けられたし、今の周囲のおかげで自分がある」。不安で泣いた日は数え切れないが、「私は私でいい」「私にしかできないことがある」、そう考えている。
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希望。それだけは失ってほしくない。その一心だったと、西神戸YMCA保育園園長で、神戸YMCA福祉会常務理事の小沢昌甲さんは12年前を振り返る。
あの事故の後、尾堂さんの父から電話があった。「意識が戻らないかもしれない」。内定辞退の相談だった。小沢さんは「もう少し待ってほしい」と返した。夢をかなえるためにうちを受験してくれた。簡単には見捨てられない、と。
「教育福祉を扱う現場として、多様な人が働く社会になってほしいという理念がある」と小沢さん。クラスを受け持つことは難しいかもしれないが、できることはあるはず。ベッドの尾堂さんに希望を持ってほしいと伝え、働き方を職員で話し合った。
障害児を預かったこともあり、施設がバリアフリーだったことも生きた。雨にぬれずに車を乗り降りできる地下駐車場もある。車いすでも動きやすいよう、机の配置も工夫した。
兵庫県内の民間企業の障害者雇用率は2・25%(2021年6月)。保育の現場で働く障害者は決して多くはない。
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