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5月21日は、東京帝国大学の教授だった上野英三郎博士の命日です。
上野博士といえば、東京・渋谷駅で「ハチ公」が待ち続けていた飼い主です。
飼い主の上野博士に忠義を尽くしたとして、のちに「忠犬」と呼ばれることになる「ハチ公」は、ことし11月に生誕100年を迎えます。
そこで「ハチ公」の魅力について、上野博士の遺族への聞き取り調査を行うなどして研究を続ける白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員に聞きました。
渋谷のシンボル~忠犬ハチ公 “幸せなとき”
JR渋谷駅に隣接するハチ公前広場にある「忠犬ハチ公像」。
東京を訪れた観光客が記念撮影をするなど、渋谷のシンボルになっています。
モデルとなっているのは、東京帝国大学(現在の東京大学)の教授だった上野英三郎博士の愛犬「ハチ」です。
帰らぬ飼い主を待ち続け、のちに「忠犬」とも呼ばれる「ハチ」は、いまからちょうど100年前の1923年11月、秋田県大館市の農家に生まれました。
年が変わった1924年1月。
生後2か月ほどの秋田犬は、ふるさとを離れて東京・渋谷で暮らしていた上野博士に贈られました。贈ったのは、当時、秋田県庁に勤めていた上野博士の教え子、世間瀬千代松さん。
これまでのお世話になったお礼として、秋田県の特産品を贈りたいという世間瀬さんからの申し出を受け、上野博士は「秋田犬の子犬が欲しい」と希望したということです。
左:八重子さん 右:上野英三郎博士
すでにポインター犬2頭を飼っていて、大の犬好きだった上野博士は、教え子から贈られた秋田犬を「ハチ」と名付け、妻の八重子さんとともに大切に育てます。
上野博士の遺族など関係者200人以上に会うなどして、「ハチ」について調べている白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の松井圭太学芸員は、「ハチ」は上野博士にとって特別な存在だったといいます。
松井圭太 学芸員
「上野博士は『ハチ』を飼う前にも秋田犬を飼っていましたが、なかなかうまく育たなかったといわれています。だから、犬小屋も2頭のポインター犬とは異なり、自らの部屋の縁側に設置していたほか、桜の木が植えられていた上野邸で開催された花見でも上野博士は自らの膝の上に『ハチ』をのせて可愛がっていたというということで、特別な思いがあったんだと思います」
そんな「ハチ」の日課は、当時、東京・駒場にあった上野博士の勤務先、東京帝国大学農学部や、出張の際に利用していた最寄りの渋谷駅への送り迎えでした。
時には、渋谷駅に帰ってきた上野博士とその教え子とともに焼き鳥屋に連れて行ってもらい、ご褒美として焼き鳥のおすそ分けをもらっていたということです。
大好きな主人との別れ~その後は?
そんな日常は、突如、終わりを告げます。
「ハチ」が、上野博士と暮らし始めて1年4か月後の1925年5月21日。
上野博士が大学構内で倒れ、急逝してしまったのです。
借家だった上野邸を去ることとなった妻の八重子さんは、知人宅に居候する形で新たな生活をスタートさせたため、「ハチ」とポインター犬を別々の親戚宅に預けます。
ところが、「ハチ」の新たな生活はこれまでとはほど遠いものだったと言われています。
松井圭太 学芸員
「『ハチ』が預けられた家は、呉服店を営んでいて忙しいこともあって散歩もなかなか行けなかったようです。また、『ハチ』は客に飛びつくこともあったようで、その後、いくつかの家を転々とします。時には満足にエサも与えられない日々もあったということです」
渋谷での幸せな生活からかけ離れた時間を送ること2年あまり。
八重子さんなどの境遇を知った上野博士の教え子たちは、当時、まだ田畑が広がる世田谷に一軒家をプレゼントしたのです。そこで、ハチとポインター犬は、再び八重子さんと一緒に暮らします。
ところが、「ハチ」は、他人の畑に入って、農民に棒でたたかれたり、かつて仲が良かったポインター犬にかまれたりするなどしました。
さらに「ハチ」は度々姿を消し、八重子さんは気をもむことが増えていったと言われています。
そんななか、八重子さんは、知人から「ハチを渋谷で見かけた」という知らせを受けたのです。
何度、連れ帰っても渋谷駅へ向かう「ハチ」。
八重子さんは、「ハチは大好きな上野博士に会いたがっている」と察し、かつて上野邸に出入りし、ハチを子犬のころから可愛がっていた渋谷に住む植木職人に預ける決断を下します。
松井圭太 学芸員
「八重子さんにとって『ハチ』は上野博士の形見のような存在だったので、本来であれば自らのそばに置いておきたかったはずです。ただ八重子さんは『優しく、芯の通った人だった』ので、毎日渋谷駅に通うハチの苦労を考え、苦渋の決断をしたんだと思います」
八重子さんのもとを離れ、大好きな上野博士の帰りを渋谷駅で待ち続けた「ハチ」ですが、野良犬と勘違いされて追い払われたり、捕まったりする日々が続きます。
時には、野良犬にかまれて耳にけがをすることもありました。
そんな状況を変えたのが1932年10月。
「いとしや老犬物語」と題した記事が新聞に掲載されたことでした。
これをきっかけに「ハチ」は“時の犬”となります。
それから3年後の1935年3月8日。
現在の渋谷警察署の近くで冷たくなっている「ハチ」が発見されたのです。
上野博士が亡くなって10年がたっていました。
忠犬ハチ公について
帰らぬ上野博士を約10年も待ち続けた「ハチ公」。
その魅力について松井圭太学芸員に詳しく聞きました。
~上野博士との強い絆~
「ハチ」は上野博士と1年4か月ほどしか一緒に暮らしていないのに、帰らぬ博士を約10年も待ち続けたんですよね?そこには強い絆があったとしか思えませんが、1年4か月の間に何があったんですか?
松井圭太 学芸員
「ハチが贈られたのは関東大震災の翌年1924年。まだ震災の余震も続いていて、ハチが乗せられた列車はその都度、停車し、輸送時間が10数時間かかったとされています。また、時期もとても寒い1月でハチは、上野博士のところに来たときにはかなり衰弱していました。だから、上野博士は、ハチを自宅にあげて食事を共にしたほか、自分のベッドで一緒に寝ながら看病しています。熱を出したり、おなかを下したり、その都度、薬も上野博士が与えていたということで、我が子のようにハチに愛情を注ぎ、ハチもまた上野博士を父親のように思っていたのでしょうね」
~渋谷駅で帰りを待ち続けた理由~
上野博士が亡くなってからハチは、渋谷駅で帰りを待ち続けていますが、ハチが日々、上野博士を送り迎えしていたのは、駒場なんですよね。なぜ駒場ではなく、渋谷駅だったんですか?
松井圭太 学芸員
「上野博士は農業土木の権威でもあり、全国各地で技術指導などを行っていたほか、朝鮮半島などへの出張も多く、その際に渋谷駅を利用していたんです。だから『ハチ』は、先生の姿が見えないときは、渋谷駅で待っていれば会えると思っていたんでしょうね。
実際、上野博士が帰宅の日時を誰にも伝えず出た際、渋谷駅で上野博士の帰りを待つ『ハチ』と、上野博士が再会した時、博士はたいへん喜んだという話があります。
『ハチ』は、上野博士が亡くなって姿が見えないから、駒場ではなく、渋谷駅で帰りを待ち続けたんだと思います。『ハチ』はとても賢い犬だったんです」
~忠犬ハチ公の魅力とは?~
最後にハチの魅力と、なぜここまで多くの人の心を打ったのか尋ねました。
松井圭太 学芸員
「ハチは『大好きな上野博士に会いたい』という純粋な思いで、約10年間も渋谷駅で待っていました。人間も、亡くなった人と会えないと分かっていても会いたいと思うときがありますよね。だからこそ、多くの人が誰かへの思いと重ね合わせて共感し、心を打ったんだと思います」
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